2010年7月20日火曜日

「ヒューモアとしての唯物論」

 もう何年前になるか忘れてしまったけれども、柄谷行人という哲学者が「ヒューモアとしての唯物論」というエッセーを書いたことを、その内容は定かに覚えていないけれども、記憶しています。
その昔、蓮如という僧が御文章と呼ばれる手簡の中で「白骨の章」という文章を書いたことを、今夜は想い起しています。どちらも人間の様相を鋭く見抜いた稀代の名文章と感じています。二つの文章に共通するのは、人間に対するどこか愛情すら感じさせるヒューモアです。
 大部分の精神疾患は、脳の疾患に起因することが現代科学により解明されつつありますが、このことで最も解放されるのは、患者本人とその家族であることは、あまり知られていません。こころというものが、依然としてモノとはかけ離れた、未踏の領域である、という思考の慣習が根強く残っているからです。性格や精神性と呼ばれるものと、あなたの病気は無関係です、それは単なる脳の疾患に過ぎません、と告げられることが、いかに患者やその家族を解放するか。それは、唯物論が到達する一つのヒューモアに他なりません。
 亡くなった人間が、その先にどこへ行くのか、到底知るすべはありませんが、この世から姿形が消えてしまうことは紛れのない事実です。朝にはあった紅顔も、夕べには夜半の煙となしはてぬれば・・・ただ白骨のみぞ残れり。
 当たり前ですがいのちとは不思議なもので、親のないいのちはこの世にはありません。その親にはまた親がいて、またその親には親がいる。そんな風にしてつながっている事実は揺るがせようがない。もし永遠というものがあるとしたら、そんな出来事の重なりあいをいうのかもしれません。(金)

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